教育が社会の自己更新を可能にする

学校教育に問題があるということは、ほとんどの人が認識しています。でも、教育の運営にあたる人たちは、先生たちがもっと研修に励み、学校運営に弾力性を持たせればなんとかなると思っています。

いやいや、そんなに簡単にいくものか、と思うのです。現在の学習指導要領、検定教科書、保護者と生徒の運営参加なしという3点セットは、深く学校教育を制約しています。さらにそこに入試がからんできます。

現在の教育は、生徒に『自分は教えを授かる者に過ぎないのだ』という無力感を容易に生み出します。それは、構造的なものです。教師が生徒に注入すべきものを強く規定されているために、どうしてもそうなるのです。

少数ですが、いい公立学校もあります。いい先生もいます。でもそれは、ちょっと教育長が変わる、校長や先生の人事異動がある、という程度のことで吹っ飛んでしまうのです。いい芽はあるけれど、制度に支えられ、文化として広がることができないのです。

「できる先生になる」、「できる校長になる」、そんなレベルで教職員を動機付けしていたのでは、官庁や一般企業と同じです。そういう人たちは、「できる生徒になる」ように子どもを動機づけることしかできません。

子どもには、「子ども時代を生き抜く」という天職があるのです。子ども時代には、人を信頼することができ、世界が驚異に満ちています。その子どもたちと共感し合うだけで教育はできます。

教育の本質は「精神の自由」にあると思います。どんな権威もなく、自分の感覚と自分の気持ちで物事を捉えていくことが、「精神の自由」です。子どもたちは、大人たちの持っている文化を、まっさらなところから捉え直していきます。それによって、私たちの社会と文化は、いつも自己更新していくことが可能になるのです。

教育が、社会の自己更新の役割を担おうとすること。

それが、教育の最大の役割ではないでしょうか。

(古山明男)

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