【復刻版】小貫大輔 vs 古山明男 教育の多様性対談

講演録

小貫大輔 vs 古山明男 教育の多様性対談(後編)

本対談は、2002年12月18日に衆議院第二議員会館で教育の多様性の会が開催した「NPO法人学校 - 第三の道は可能なのか?:公立学校,私立学校に続く第三の可能性を考える」(以下に当時の告知を再現)の大きな反響を受け、翌日2002年12月19日に同会が開催し、収録した記録です。

ドツボってること

〈前編からのつづき〉

古山:生き生きとしたものが必要な領域がおかしくなっている、特に教育と経済でしょう。芸術や文化や言論は、憲法で自由を保障して、余分な法律を作らなかったから、順調に伸びた。ところが教育は、戦後復興体制のまんまで、ソ連と同じに統制されてた。「精神の自由」に「教育の自由」を含めてないもんで日本の、いろんな文化まで浅くなっている。学問、芸術、思想には、教育をワンセットにしておかないと、順調にいかないんです。

教育をなんとかしなきゃといいつつ、これはまあ江戸幕府かソ連かという状態になっちゃった。もちろん、これを変えるのは、体制を壊せばいいんじゃなくて、それは本当にその場その場で人々がこれが必要だ、こうやったらうれしいんじゃないか、それこそ、そうやってわっとやってきて、初めて成り立ってくるんですよね。

ソ連などは、経済も官僚がやろうとしたら悲惨なことになっちゃった。ゴルバチョフの回顧録を読んだんだけど、政府の仕事というのは実は、ここが何万トン生産できるからそのうち何千トンをここにまわして、輸送施設が必要だからそのためにここをどうするとか、そうするとまた別なことを考えなくてはならなくて、ひたすらそれの計算ばっかり政府がやってるんです。政治やってるヒマないですね。おまけにあそこは、「経済がすべてを決定する」っていう哲学なんだから。やればやるほど大変になっちゃって悲鳴をあげちゃう。政府がいくらいい計画を立てても、現場は「また、俺らがやらされるのかよ」くらいにしか思わないしね。現場は、舌をペロンと出して、テキトーにやって、生産物はどんどん闇市場に流してしまう。だもんで、政府は計画変更につぐ計画変更。

小貫:ドツボってましたよね。今の日本の教育もドツボってます。ゆとりから学力重視へといきなり方針転換をするあの様は、ドツボってるときの典型的な行動パターンですよ。大工さんに家庭争議を解決させようとするから、悲劇です。

ただ、日本人は世界の民族と比べて、確かに、やれと決まった時にやりとげる能力がとても高いと思う。日本の今の状況は、新しい時代がきた中で、新しい時代に必要な明確な目標を持ちえずにいて、民族的にそういう状況が苦手な民族だから、苦しいだけなんだと思います。

教育の悲劇も冷戦構造から

小貫:さきほど古山さんと話していて90年代になってから日本がすごく変わってきたと話してたんですが、日本のドツボった状況というのは、冷戦構造の中から生まれた悲劇だったんですね。ところが1991年にソビエト連邦が終わり、冷戦が終わると、そのインパクトが日本にも及ぶ……。古山さんはもしかしたら天皇が死んだことをあげるかもしれないけど。

古山:いや、冷戦が最大です。そちらが第一。でもね、昭和天皇は責任とらなければいけなかった。罰するんじゃないんです。最高責任者だったから、「私の責任でした」と国民に対して手をつく。それを罰しようなんて人、いないですよ。天皇よりもっと優先する倫理ってのがあるんです。それだけで、日本の精神状況は、ずいぶんと救われたと思いますよ。精神論右翼の人たちが絶望的な気分で戦わなくても、日本の精神の、ピッとした部分は保たれた。

この教育問題も、不登校問題に関してはちゃんと違憲訴訟を起こさないとだめですよ。相手は、国と教育委員会です。罪状は、何も見ず、何もしなかったこと。制度問題だったんですよ。子どもにあった教育を提供されなくて、他を探すと罰せられて憲法の「教育を受ける権利」を剥奪された人々をたくさん出した。それに気がつかなくて、制度改正を怠ったことでね。罰はなくてもいいけど、「それは、間違ったことだったんだ」っていうスジは通さないといけない。司法で認めないといけない。これで、日本人の間にピッとしたものが漂う。これやらないと、どこかで繰り返す。

冷戦構造なんですけどね、日本で冷戦構造だったものが、10年かかったけど、本当にダメになりつつあるんですよね。経済システム、特に政治と公共事業の癒着した様が自滅しちゃいそう。教育も自滅しちゃいそう。教育というのは、ひとことでいうと、ソ連を恐れたあまりソ連と同じになっちゃった体制だと思います。

小貫:社会主義者を排除しようとした結果、社会主義国家と同じ全体主義におちいった。

古山:民主主義でない体制になっちゃったの。これはもう、完全に冷戦構造なんですよね。そういうものが本当に終わりかけてるんだけども、ちゃんと枯葉が落ちるころに新しい芽が育っているという、そういうふうにきれいにやらないと危ないんですよね。

小貫:本当にそう思います。昨日のNPO法人学校の会は、「見てください。枯葉の中に芽生えているものがあるでしょ」っていう会だったわけです。それを聞いて欲しかった。文部科学省に聞いて欲しかった。あなたたちの中で何かが死んでいくけど、安心してね。芽はちゃんと芽生えているから。そうして芽生えるものとパートナーを組んで、世代交代をしっかりやりましょう。何も恐れることはない。安心して眠りにつけると、そう思って欲しいと思ったんだよね。

古山:これなら譲り渡せるなあという……。

小貫:ぼくが文部科学省だったら、一番怖いのは、企業に門戸開放せよと言われることですよ。どうなるかわかんないもの、企業は。もしかしたら善とでるかもしれない、悪とでるかもしれない。どうなるか想像もつかないのに、パワーだけは500倍くらい強いですから。

そもそも、子どもたちはすでに企業の学校にいっている。昼間は普通の学校に行って出席を取って、学校が終わったら塾やゼミに「勉強」をしに行っているわけです。「学校」に行って出欠を取らなくてもよくなったら、はっきり言って、大変なことがおこるでしょう。

今の「出欠-勉強」分離の二重構造は偽善的で無理のある姿だから、それをやめるということを文部科学省が恐れて当たり前ですよね。日本人の実に大部分がそういう生活をしてるんだからさ。それをやめましょうと言われたら、それはびびるところだと思う。

そういう中で、「いや、待てよ、NPO法人という形で学校をやっている人たちがいて、こういう人たちとならパートナーが組めるんじゃないか」と、考えることができる。こっちには、まだ文部科学省が一つの役割を保ちながら、新しい教育のあり方を育成・助成していく仕事がまだある。そういう道もあるということを、文部科学省の人に一番知ってもらいたいんです。

教育が無償である理由

古山:もうひとつ、奇妙なことがあって、今の日本人の大部分は現在教育を経済だと思ってるんですよ。

小貫:そうですね、一連の規制緩和の動きの中で、内閣府とか経済産業省というのはもちろんそう思って行動してますよね。NPO法人学校の勉強会でも、彼らの発言はその点に終始した。

古山:だから、経済産業省がなぜか教育を含んできてるんです。文部省もそれを信用して、あ、そうだと思って、いうこと聞かなきゃと。民間も信じてる。実は、人間がいれば教育があるものであって、経済じゃないんですよ。もっと、根源的なものです。

教育の中で商売になるのはほんの一部ですよ。そろばん塾や書道塾も採算とれるし、あるいは大学進学なら、確かに価値がでかいから金を払ってもと思いますけどね。

本当に、子どもたちが伸びるところにきちんと大人が関係を持っていくのは、これは営利じゃなかなか成り立たない。教育の一番でかい部分は、子どものことがよくわかっている人を専門でつけてあげることです。教養と良識に富んだ大人を専業にさせてあげて、その人の人間としての最善をしてもらう。子どもと一緒にいさせて、黙っているときもある、教えるときもある、いっしょに遊ぶときもある、子どもたちを押すときもある、抑えるときもある、いろいろあるけれども、こういう部分というのは絶対金にならないんですよ。教育っていうの社会の中にきちんと温室を作って、苗のうちに冷たい風にさらされないようにすることです。これは、社会全体の経費なんです。個人個人ではやりきれないことです。

民主主義社会を維持するには、教養と判断力のある人たちがいなければならない。だから、義務教育があるんです。義務づけてるんだから、実行可能なようにしてやらなければならない。だから無償なんです。

よく、教育は個人の立身出世のためなんだ、だから金は自分で出せ、と解釈するんですけど、それだったら、教育を義務付ける必要ありません。立身出世だったら、したい人だけすればいいわけでしょう。

教育と言うのは社会全体の費用であって、国がやろうが、民間がやろうが、無償なんです。

いま、私立の小中学校は、義務教育をやっていると認められているのに、授業料を払ってるでしょう。あれ、おかしいんですよ。はっきりと、憲法違反です。ここから考えていったら、国のやっているのだけが義務教育だっていうの、変わってくるんじゃないかな。

ある年齢の子にした教育はみんな義務教育であり、無償なんです。最後の結果としては、これが、最大の投資効率ももっている。だって、人を育てているんだもの。でも、効率のいい悪いでやるんじゃないんです。

古来歴史的に言って、教育というのは経済の領域じゃなくて、子どもができたから教育があるんですよ。どんな場所にだってどんな時代にだって教育がある。金を取れるのは、教育の中のほんの一部分だけ。そこを教育だと思っちゃった。

小貫:本当は日本人らしくないんだけどね、そういう発想はね。

古山:そうだよねえ。どうしてだろうね。

小貫:戦争前の日本人のことを思えばね、そんな学力とか競争とかいうことをもって教育とするような民族じゃなかったと思うんだけどね。

競争は人を不幸にする

古山:結局、競争が問題なんですよ。勝ったやつが社会をリードするでしょ。そいつは、当然、競争のおかげで、そこに行けたから、競争はありがたい。競争のおかげで人格ができたくらいに思ってる。

受験競争で生き延びなきゃならない。だから金を出しちゃうんだね。教育手段として、賞罰と競争を使うなってのは、これは、ちょっとした思想家や教育者なら、誰でも当たり前のことなのにね。

教師や学校って、すぐに生徒を競争させることに手をだしちゃうのね。麻薬ですよ。

小貫:今、『菊と刀』という本を読んでるんですが、この本の中にはっきりと書いてあるけど、アメリカ人は競争させると一生懸命働くけれど、日本人は競争させると逆に失敗を恐れて働かなくなると。びびってしまってできなくなると書いてある。

古山:そうなんです。実はそうなんですよね。競争させると、かえって効率落ちてるのにね。

小貫:戦後日本を占領した人たちは、この本を読んで、そういう民族をアメリカナイズする作戦を、まさに「競争原理の導入」というところに見ていたんじゃないかなと妄想します。日本民族が競争によって行動できるようになったときに、ようやくあの理解不能な民族が理解可能な民族になると。西洋社会にとっては、日本社会に「競争」を持ち込むことは、そういう作戦につながっていたんじゃないかと思えて、ずいぶん考え込んでしまいました。

古山:それは作戦じゃなくてね、単に彼らの文化がそうだから……。だから、ぼくら競争しているのに、あの人を追い越しちゃったらあの人に恨まれるんじゃないかな、怖いな、あの人を先にしゃべらせとこうとか、実はそういうのの固まりでいるわけね。かじかんで、能力でないの。

小貫:思いやりの社会……。

古山:思いやりの社会なんですよ。あの人はちょっと負けすぎちゃったんじゃないかとかね。とにかく、日本人にとって大事なことは恨まれないことなんですよ。恨まれるのが最悪。だから、こうやったら恨まれるんじゃないかなということを敏感に察知して。

小貫:敏感ですよね。『菊と刀』の中に何回も出てくるのが、日本人は敏感だと。その過敏さは西洋人には理解できないと何回も書いている。

古山:ぼくはでも日本人は和で行くべきだと思ってますよ。そのほうが力を発揮できる。ここはもうちょっと変えようがない日本人の性質。それをアメリカ社会というのは競争させればいいと思っているんだ。ところが、1人勝つと、3人くらい敗北者が出るんですよ。発展途上国で、とにかく機関車が必要で、10人のうち1人だけパッと行けばいい時代だったらそれでよかったんだ。今、みんなちゃんと働かないとどうしようもないところにきてるんだよね。それは、自分の能力を出すという意味であって、がむしゃらにやるってことじゃ、ぜんぜんなくて。

小貫:シンガポールが日本の教育を真似したといわれます。戦後の日本の教育の競争主義をシンガポールが取って、さらに過激に押し進めた。小学校のときから競争させて、競争による格付けで学力編成をして、小学校のときからエリートコースとそうでない子をはっきり分けていくんです。シンガポールの政府は、すごく権威主義的な言い方で、「お宅のお子さんにとって一番幸せなことだからやってるんですよ」ということを、彼らの文部省のホームページの相談コーナーに書いている。うちの子は英語がよくできないがために、このクラスに回されちゃっているんだけど、なんとかならないかという親の質問があって、習熟度別のクラス編成は、あなたのお子さんにとって一番幸せなので安心してくださいと言う。

そういう社会は暮らしづらい。その暮らしづらさを数字で表すと、子どもが生まれてこない国の典型的な国なんです、シンガポールは。一人の女性が生涯に産む子どもの数が1.22。日本の1.33よりも低くて、世界でも低い方から数えて7番目の国です。

シンガポールやマレーシアは、そういう国づくりを日本から学んだと言っているのですが、今このように日本の文部科学省が自信をなくしてくると、何と、シンガポールに教育改革のモデルを探したりするんですよね。もういいかげんにしてくれと思うところです。

転機は75年頃

小貫:日本人という民族が判断のできる民族にならなければいけない。自分たちの得意なことは得意なこととして維持するべきだけど、今まで不得手だったことを身につける時期が来ている。そのことが明確になったのは、戦後復興を終えた頃、ぼくは1975年と思ってるんですけど、そのときに手をつけるべきだった。

古山:ぼくも、70年代だと思ってました。学生騒乱が何かをつきつけた。その答えを出す時期です。

小貫:奇しくも私は1975年に15歳で、生徒会でカラーシャツ運動を起こして敗北した年です。そのまま誰もこの課題に手をつけないできて、うちの娘が25年後に中学3年生になってみたら、何も変わらず同じことが続いていた。それを見せつけられて、私は愕然とした。

古山:日本の教育は、中教審でしか舵取りできない仕組みになっている。あそこは何をしていたのかな、と、おおざっぱにあたってみたんです。大体何がいいたいのかなと。そうしたら、非常に重要な答申を何回か出しているんですね。とくに、70年前後に何回かにわたってバラバラと出されたやつが、重要だった。

これは、題名だけ見たらなるほどと思います。章の見出しなんだけど、「今後の社会における学校の役割」。そうだよ、まさにそれなんだよ。こういうふうに高度成長で成長したんだから、戦後をやめようと言ってるんですよ。考えなきゃいけないと。実に正しく捉えている。

小貫:中教審で出てくる言葉はみんなすごく立派な言葉ですよね。これをひとりの教育学者が言っていたら、その人は偉大な教育学者として位置づけられてもいいくらい。

古山:そこまではいいんだ。そこから先何をやったかというと、高校の科目を何にしましょうとか、なになに高校をつくりましょうとか、カリキュラムをちょっといじったりとか、実技をどうしましょうかと。根本的なことは何もされないんですね。

これ、国際比較をやってないせいだね。今の中教審もやってない。ちょっと目に付いたアメリカとイギリスを拾ってるだけ。

小貫:役所的に考えて、役所としてできることに移し変えて解釈し直している。

古山:そうなんです。自分のところでできることしか考えないし手をつけない。自分が消滅しそうなことは、ぜったいに考えない。中教審は、もともと教育刷新委員会というのが戦後の教育改革をやってきたんだけど、それを中央教育審議会にするとき、文部省の中に入れるか、文部省の上に作るかで論議になって、自民党の方が、文部省の中に入れちゃったのね。ご意見番を作るのを、嫌がったのね。学者は、けっこう見えてる人たちいるから。それで、そういうことになっちゃった。

でも、71年の答申に、まあ、これだけは確かに掴んでいるものがある提言だなというのがありまして、中高一貫6年にしちゃえというんですよ。そうすると、高校受験ですり減らすのがなくなるから。これをやってりゃずいぶん違ったと思いますよ。これはちゃんと、中教審も提言したんですよ。おそらく現場が面倒くさかったんでしょうね。大変なので。

小貫:中学校は市区町村で高校は都道府県、自治体が違うからね。

古山:そうそう、実際にそれをして調整するとすれば、現場の人は残業また残業で、家にも帰れなくなります。死ぬ思いをするよね。そりゃ、いやだよ。でも、その次元だけで決めちゃいけないでしょ。生徒たちの苦しみがあるんだから。でも、面倒くさがった。すべてそういう調子で、結局何も変えないで来ちゃって。

それから不登校問題が出てきて、96年に「生きる力」と「ゆとり」。やっと気がついたかというところにやってきたんだけど、だったら授業の全然ない学校を作ってみるとか、宿題は絶対に出さないようにしようとか、せめてモデル校くらい作ってみないといけない。それから、心理学者とか教育学者の人を全部集めて、それから外国の例を全部集めて、徹底的に調べないとだめですよ。よさそうな国が見つかったら、それをモデルにやってみるとか、それは全然やらないんですよね。

一つの教育しかないのがいけない

小貫:ぼくはどんなにすばらしい教育学でも、それを全国で一斉に全部やることはドツボる道だから止めておけと言いたい。たとえばシュタイナー教育がいいと思っていたって、日本中でシュタイナー教育をやりましょうというふうに法律ができたら、それほど恐ろしいことはないよね。娘をシュタイナー学校に行かせる私だって、それだけは絶対に阻止する(笑)。

古山:ホームスクールをやってるけど、みんなホームスクールだったら大変だよ、ただの教育崩壊だよ。授業しないんだもの。やっぱり、やりたい、やれるという人たちがやっていくから、いいのであって……。

小貫:文部科学省の批判だけがちょっと続いてるんですけど、公教育はやっぱりちゃんとしていてくれなければ困る。文部科学省の決める教育が全部-100%というのがまずいというだけです。

国民の期待、望む教育の姿というものを最大公約数的に提供できるのはやはり公教育、文部科学省の教育学の影響を受ける学校体系でしょう。例えば、シュタイナー教育を望む人の割合というのは、ヨーロッパだって高々1%なんですよね。日本ではシュタイナー教育を実践できる教師の数にそもそも限界があるから、1%もの子どもを受け入れることは、当分の間できそうもない。どんな時代がきても、主流としての教育は公教育とやはり文部科学省の教育思想を実践する普通の私立学校、9割くらいの人たちがそういった教育を受けている状況が続くと思うんですね。

オランダでは国民の約3分の2が私立の学校に行っていますが、これは例外的。オランダでは、1917年という第一次世界大戦の最中に法律を改正して、公立学校も私立学校もまったく同じ額の公的資金を受けることのできるようにした。それでも大部分の学校は公立学校と、カトリック、プロテスタントの私立学校で、オルタナティブな教育をする学校は全体の1割程度でしょうか。

文部科学省の役割は、やはり重要。教育の自由化の過程で自らの責任と役割を下手に手放して、なんでもあり、全部勝手にやってくださいというふうにしてはいけないと思うんですね。

古山:もう寿命が見えるところまできちゃったでしょう。そうすると逆にね、これに美しいところはあるのかなぁ、いいところあるのかな。てそういう目で見るようになってくる。今まで批判ばっかりしてきてるんだけれどね。感覚でね、この日本人たちのもっている、それも教育によって創られたらしいという部分、やっぱりいいものがあると思う。これは外国に出るとわかるんですよ。日本にいるとわかんないけども。何かねぇ、何かきれいなものがある。ただ全部なくすというのは危ないと思う。純粋学問をカリキュラムにしたってことと、信じてコツコツやることがあったってことかな。まだ、よく調べてないから、わかんないけど。

やっぱり、いろんな道を開いておけば、いいだけのことなんですよ。教育ってのは、作るのに、5年10年かかるんだ。校舎建てるのとちがうんだ。いきなりは、無理だよ。

小貫:そうそう。ぼくのイメージとしてはね、文部科学省の教育思想に従うもの9割、その他1割というのが、結構いい線いってるんじゃないかなと思うんです。

古山:その、1割のほうの大部分は、今ある学校の改革ではなくて、その外側に新しくできてこないといけない。市民や教員たちが、自分たちで作るんです。憲法で教育の義務を負っているのは親たちなんだから、子どもに合った教育がなければ、自分たちで教育を作らなきゃならない。

今の学校がカリキュラムを変えればすぐになんとかなる、っていうものではないんですよ。別なことをやるには、別な精神がいるんです。先生や生徒に対する管理機構をそのままにして、カリキュラムだけ大胆なことをするでしょ。これは、体に合わない服を作ってしまう。とにかく、あの教員管理機構じゃだめだ。3年もいると、みんな、きれいなお説教ばかりして、用意された言葉でしか現実を見なくなる。

学校はいままで、強制だけで成り立ってきてるでしょ。見えない登校圧力のこと、学校関係者が理解していない。それを急に緩めると、中途半端なものができるんです。生徒を教室に無理やり座らせておいて、先生が顔だけニコニコして、「みなさんの好きなようにやりましょう」みたいなの。これは、みんなの不信を買って、崩壊してしまう。いまの学級崩壊のかなりは、これじゃないかと思っています。

学校は学校で、きちんとやり続けて、ただし、それに合わない人のために、教育選択の自由と、学校設置の自由を認めればいいんです。

そのうち9割の中でもね、だんだん、だんだんと教師たちが実践を増していってね、だんだん少し分かれてくる。自然にこういかなきゃいけないですよね。最終的には、7-3くらいまで行ってほしいけどね。

ソフトランディング

小貫:「教育の多様性の会」のメーリングリストでオランダ在住のリヒテルズさんが言っていますが、オランダでは、国の中にさまざまな教育実践があるから、公教育を改善しようというときにも、「ああ、こういうことをやろうかな」っていうアイデアが国内のオルタナティブな教育実践の中から来てることが多いそうです。オランダの公立学校改革のこの政策は、明らかにダルトンの発想だ、これは、イエナ・プランの発想だと、その起源がたどれるようなことがたくさんあるそうです。

ぼくが文部科学大臣だったら、そういう形で教育の自由化を実現したい。そういうところに軟着陸したいと思うのですがね。 

今、文部科学省の中央集権体制は、いかに軟着陸するかの問題になっていると思うんです。ソ連という体制は、それがだめになった時に今日のロシアを生んだのは、ハードランディングだったんですよ。ソ連のやり方をやめた時に、おとずれたのは極端に残酷な資本主義社会、資本主義の悪いところが噴出するような国をつくってしまった。あれはハードランディングの失敗例でした。

古山:あれね、ゴルバチョフが、ソフトランディングしようとして一生懸命やってたんだよね。ゴルバチョフはね、社会主義っていう赤旗だけは立てておかなきゃいけないってのを知っていた。赤旗だけ立てておいて、なんでもやるんです。この赤旗は絶対に出しておかないといけない。次の目標が見えるまでは必要なんです。それが赤旗の最後のご奉公なんだ。ゴルバチョフは奇跡に近いことうまくやってたんだけど、あのクーデターが起こっちゃってね。

小貫:そこ。クーデターしたやつらが悪い、と。こんなやつらはもういいやって、ゴルバチョフだって見捨てたくなったと思うんだよね。やっぱり社会主義者はこんなにだめなやつらだと、救いようがないやと思っちゃたのが、あの失敗に終わったクーデターのもたらしたものだったと思うんですよね。今も、それを文部科学省について、ついつい思っちゃうわけ。ソフトランディングしてほしい、文部科学省プラス普通の私立で9割、その他1割っていう形に持ち込みたいと思いながらも、文部科学省ががんこに文部科学省型を100%守ろうとするから、あまりにも理解がないから、ついつい、現行制度は潰すしかないのかと思っちゃうわけですよね。頭にくるから。

中教審行った時も頭にきた、昨日の会でも頭にきたけどね。昨日なんて、最後にあれだけ言った。「私たちをパートナーと考えてほしい」と力説した。あれはもう文部科学省に対するラブコールですよ。はっきり言ってね。あれであの後、文部科学省の人がね、「やあほんとに嬉しいことを言ってくれました。まずは、お宅の学校に見学に行きたいんですけど」と言ってくると思うじゃない。あそこの段階でね。だけど、そうじゃないんだよね。

でもね、すごいと思うな。今、こうやって好き放題言ってるじゃないですか。昨日なんかも、役所を前に思いっきり意見を言った。そんなことを言うと自由な学校の不利になることをされる、とか、そんな恐れはなくなってしまった。取締りが厳しくなるかもしれないなんて、もう誰も思わない。

昔も好き放題な発言はやっていたかもしれない。けれど、それはごく一部の人たちが自己満足的にやっていただけで、文部省だって鼻にもかけなかった。だけど、今はね、これからこういうことやるとね、全部聞いていると思ったほうがいいですよ(笑)。日本にはさすがに盗聴器はないだろうけれど、でも、これ、この対談も印刷するじゃないですか、そうするとね、見るよむこうは。だからそういう中で、気をつけておきたいことは、相手を罵倒することはいけない。罵倒で人を説得することはできない。そういう部分は、今日あったかもしれないけれど(笑)、編集した方がいい(笑)。罵倒したらね、やっぱりハードランディングの道しか残らない。

古山:指摘はするけれども、罵倒はしない。

小貫:言葉づかいを選び、ソフトランディングに導くことをね、なんとか実現させたいなと思う。

古山:文部科学省ね、よくやっていると思うの。一言で言うとね、あそこね、自分のやれる事はよーくやるけれど、自分でやれないことは、何にもやれないところなの。例えば、社会教育の部分、よくやっていると思います。人知れず、こつこつ、こつこつ図書館を建て、公民館をつくり、なんらかの便宜をはかり、ふっと気づくといつのまにか、いい施設ができているのね。それも、文部科学省は補助金だすだけだから、名誉は自分のところにこない。あの感覚は、とてもいいものを持っているんですよ。学校のいろんな設備だって、こつこつなんかを贈ってやるっていうのは、やってるんですよね。

過激にクリエイティブな人たちがいないと

小貫:そうそう。そういうね、良さを活かしながら、ソフトランディングしてほしい。だけどね、日本の中に、あるパーセンテージね、ちょっと過激にクリエイティブな人たちがいないと、民族が滅びちゃう。だから、何パーセントっていうレベルでいいから、数パーセントっていうレベルでいいから、蓄えとして、日本の中に非凡な人が生きる場所が必要だと思う。平凡な人がみな死ぬ病気が流行っても、そしてそれは実はグローバリゼーションという名前をもらって世界ですでに流行りつつあるんだけど、ちゃんと治療薬が準備されているようにしていないとさ、みんな一緒に倒れちゃうんだから。

平凡っていうのは変な言い方だな、実務型といった方がいいかな。この民族には、やっぱり実務の上手な人が大半であることは続くと思うんですよ。しかし、そういう中で、判断力とか、芸術力とか、そういうところに長けた人たちがあるパーセンテージいなきゃいけない、この国に。それが次第に全員に浸透していって、それこそ30年間くらいかけて、日本人全体が、少ーし判断力が豊かになって、自主性、創造性、芸術性が豊かになって、と、ステップを踏んで民族が成熟していく。バランスのとれた民族になっていく。その道にのりたい。

バランスがとれたところに辿り着いても、でも、世界の中では、やっぱり、さすがに日本人っていうのは実務力ではいまだにりっぱだね、と言わせるものを残すべきだと思う。それが、ソフトランディングの意味でもあると思います。

さて、みなさん、なんかちょっと我々で言いたい放題だったので、最後になりますが、何かあれば言っていただければと思います。

参加者:ずーと聞いてて、いったいどこから言っていいのかという感じが……、なんかまとまりかけているし……。軟着陸しないと、むこうが文部科学省が放棄してしまうと、結局、私の友人たちもそうですけれど、別にシュタイナー教育のようなことを自分たちでやりたくない、今のままで不満もあるけれど、でも自分たちが一生懸命、主体的に関わる気はないという人たちがいる。やっぱり文部科学省のやる政策っていうのが、おっしゃったように残る部分っていうのが大事なんじゃないかなと思っています。でもその時に、いったい私たち、ごく1パーセントの人たちが、どういうふうにうまく、文部科学省に働きかけることができるか。昨日の会とかを見ていると、衆議院議員の人がいて、文科省の人に対して、「この人たちは大臣じゃないんだから、判断できる立場じゃないんだから、聞いても無駄だよ」みたいな言い方をしていた。それは上から下、上の人が下の人にものをいう言い方なので、心理的にかなり抵抗があるだろう。そういうところにいて、肩身の狭い思いをして、いじめられてきた人たちだから、小貫さんが最後にラブコールをして、文科省の人たちの今までの実績と、クリエイティブな部分を合わせて一緒にやっていきたいんです、と言っても、心が閉ざされていて、全然通じない。なんでおまえらに言われなきゃなんないんだ、俺たちが。みたいな感じになってしまう。だからそこのアプローチを、本当にもう、こっちが、相手をたてて、うまくやってく、そういうアプローチって、私たち主婦に、いったい何ができるんだろう。

小貫:相手をたててってわけじゃないんだろうけど、やっぱり相手を理解しないといけないですよね。彼らだって、彼らなりの人生があって、悩みがあってという人たちなんだからね。

ただ、不登校の学校には30日休んだら入れるとか言われちゃうと頭きちゃうよね。自分の子どもを見ていて、たった2ヶ月半で、あそこまでね、あんなに健康だった子どもの心が、こんなにあっという間に傷ついてしまうっていうのは、ぼくにとっては衝撃的でしたよ。それを経た人だけは解放します。あなたには不登校ってハンコを押してあげる。あなたは不登校ですね、ってことでしょう。

昨日も、あの不登校経験者の女の子が言ったみたいにね、「(今、フリースクールに通いながら元の中学校に学籍があるのは)それを受け入れればいいことなんだろうけど、私にとっては屈辱的なことです」って彼女が言ったのは、まさにそのとおりだと思う。屈辱さえ我慢してくれれば、あなたを解放しますよって言っているんだよね。悲しいよね。本当にね。文部科学省のために悲しいですよ。

古山:ぼくなんか、ほら現場で、不登校の子どもらいっぱい相手にしているでしょ。だから怒り狂っちゃうよ。

参加者:それは、彼らが判断しているわけじゃなくて、それこそね。そこに書いてあるから、やってるんだよ、ほんとに、形式的なことを照らし合わせてやっているわけでしょ。なんで形式的なことを大事にキープする必要があるの。

小貫:オランダ人だったら、役人でもあの回答はなかったと思う。あそこの場面で。あそこでものを判断する人は、ここで30日というふうに回答をすることが、どんなに非人間的であるかということを判断したと思う。「私には答えは申し上げられません。これは省内に持ち帰ります」と、少なくともそう言うと思う。

サンドバッグになってきてくださいっていう仕事ですよね。彼の仕事は。不幸な状況だよ。一番いやな仕事じゃないかな、これからの数年間。初等中等局で働くということは。

古山:つらいかもしれないけど、俺が引き受けるっていう人がいてくれないとね。そういう人たちを、敵と思っちゃいけないよね。公務員というのは、判断していいのはトップだけ。そのトップも法律の枠の中でなけりゃいけない。だから、法律が社会と合っているうちはいいけど、法律が時代遅れになると、官僚機構全体で、世の中の邪魔をしちゃう。江戸幕府の全体がこれでしたよ。

参加者:昨日あの女の子が話すのを聞いていて、自分の子は最初から東京シュタイナーシューレにめぐりあって、自分にあったところに運良く通うことができているけれど、もしあのまま公立に行っていたら、途中で行けなくなっていたと思う。それを私は最初からなんか感じとっていたんだと思う。それを予知してここを選んだんだと思う。12年生までシュタイナー教育をここでやってほしいんだけど、なかなか受けてもらえない。

小貫:先ほどね、ぼくは、ソフトランディングで、文部科学省型教育9割、その他1割みたいな状況って言いましたが、1割っていうのは、たぶんね、日本では不可能的に難しいと思う。なぜかっていうと、1500万人の小中高生がいる中の150万人を面倒みれるだけの教育力っていうものが、オルタナティブな教育の側に教師の数としてない。あまりになさすぎる。150万人をみるというのは教員の数にすると7万人の話なんですよ。シュタイナー教育だって、ヨーロッパみたいに1パーセントの子ども、15万人をみるとしたら、教員が7000人必要なんであって、それも全然できない。全くできない。7000人の教員をつくるために何年かかるか。だから、そういう実務的なレベルから逆算していくと、日本でソフトランディングというのは、オルタナティブ教育全部あわせて1パーセント程度と、文部科学省型99パーセントっていう話しになっちゃう可能性があると思うんです。

地域の特色

古山:教員のほうを動けるようにして、あるいは教員がなんとか束縛をひきちぎって動いてくれて、なんかいろいろやりながら創ってくれるといいですよね。あるいは、地域で、本当の意味で、地域コミュニティができているところもありますよね。俺らが昔から村にいるんだから、こん中で子どもを育てよう。国語、算数、理科、社会は半分にしてくれや、他のことやりたいんだからとかね。そういう部分がいっぱい出てこなきゃいけない。

小貫:地域の人間が、そうやって腹割って話しあうことのできる地域が、いったい今日本に残っているのかと思いますよね。ぼくがこの学校(東京シュタイナーシューレ)が好きでしょうがないのは、そこに友達がいるからですよね。家族ぐるみでつきあえる友人たちが、ここにはいるっていうことです。珍しいでしょ。こんだけ大勢の人たちが、家族ぐるみでつきあえるというコミュニティが、今、日本に残っているでしょうか。このコミュニティの味わいがないと、何か日本的なっていうか、戦後の日本の特徴的なものかもしれないけど、何か変な距離感のある、あなたはあなた、私は私みたいになっちゃっていると、そこで「新しい」学校をみんなで作れっていうのはね、可能なんでしょうか。

オランダのリヒテルズさんも指摘していて、シュタイナー教育もいいけれど、地域ごとに地域の特色を出した学校づくりっていうもの、うちの地域はこれでやるっていうものを出せるようじゃなきゃいけない、って言ってきているけれど、だけど、それができるコミュニティというものが、今、日本の中にどれだけあるかなぁ、と思うんですよ。

古山:あのね、ひとつおもしろいのがあってね。石垣島の近くにちっちゃい島があってね。人口200人です。なんとね、昔からおまわりさんがいない社会なんです。最大の社会問題ってのは、酔っ払いがあばれること。それがね、もうじき潰れちゃうだろうと言われている。独特の言葉ももっているんだけど、それをしゃべれる人が、もうそろそろお年だと。それから、おじいちゃん、おばあちゃんたちが子どもを可愛がって、面倒をみて、親切にこれはこうするんだよ、って伝えてきてそれで島の伝統を保ってきたのが消えそうだって話を聞いたから、それをひとつ興しませんかってアイデアだけは提供したんだけど、そこにいる人が動かないとね。島にいる人が動かないとしょうがないんだけどね。

小貫:今コミュニティとして成立しているここの学校(シュタイナーシューレ)のグループっていうのは、みんながある似た傾向の人が集まってきているから、成立しているわけですよね。でもそれはまた、「偏り」でもある。多様な人たちがいてはじめて「社会」なんだから、本当はやっぱり、似たもの同士の集まりじゃなくて、地域に基づいたコミュニティが成り立つといいなと思う。だけど、今は、そういうコミュニティは失われている。

でもね、創れるんだよね、そういうコミュニティ。20年もかければ。子ども達から始めて、子ども達が大人になるころまでにはできるんですよね。今から取り組めば。なぜそう言うかっていうと、ぼくが仕事してきたモンチ・アズールというブラジルの貧しいあるコミュニティは、シュタイナー思想をベースにしたスラムの教育・文化活動です。スラムの住人にとっては、シュタイナー教育を選んでそこに住んでいるわけでもなんでもない中で始まった活動だから、シュタイナー思想をベースとしているといっても、シュタイナー色の薄い、基本的な大切な部分だけ、根源的なところだけ維持している。そうして、とても緩やかな実践をしながら20年以上やってきました。20何年もそういう活動が実践されてきて、今、地域としてね、すごくいい地域が生まれているんですよ。20年。モンチ・アズールを訪れると、20年っていう時間のインパクトをすごく感じる。

古山:俺らの学校を持っているというのは、これはその社会コミュニティを維持するのに相当でかいことだと思う。ただ、もちろんあんまり地域の純粋なの創っちゃうと、外へ出ていきたい人たちが困るけど。でも、そこらへんは、そこの人たちにわかりきったことだから、任せればいいのね。 

いままで、日本全国の小中学校を全部一律に動かしてしまったっていうのはこれはちょっとね。

小貫:そうそう。これは富国強兵、国家総動員体制で戦後復興をやり、経済成長をとげたことの、全て犠牲ですよ。実務力のある民族だから、やると決めたらやる。いつも思うのは、ドイツ人っていうのはね、正しいからやる。ブラジル人はね、楽しいからやる。日本人はやると決めたからやるっていう風じゃないでしょうか。この悲劇。だから偏ってちゃいけないよ。ブラジル人だって、楽しいことしかやらないっていうのは大問題の民族だと思うし、ドイツ人みたいに自分が正しいと思ったことしかしないっていうのもね。あなたが正しいと思っただけでしょ、みんな人によって判断が違うんだから、やると決めたらみんなでやりましょ、って言っても、いや私はやりません。というのがドイツ的でもあるからね。それぞれの民族にとって、今の時代大切なことは、自分の民族の、喜びと苦しみをよく理解して、成熟へ向かって歩むことですね。

参加者:20年かければコミュニティを創れるとおっしゃったけど、小貫さんはブラジルの貧しい地域にいた。日本でやっぱり圧倒的に違うのは、経済によって、仕事によって、東京みたいなところに集中するじゃないですか。九州や群馬や、ある地方に、そこに根付けないまま、地域活動といっても、それは一時的なものになってしまう。

小貫:それは、(東大教育学部教授の)汐見さんがおっしゃったことですよね。このあいだの(東京シュタイナーシューレ主催)教育フォーラムの時。汐見さんがすごく面白いことを言ってね。日本は、東京みたいな社会っていうのは、会社が本拠地で、家にはただ休むために帰ってくるだけでしょ、と。だから、コミュニティは会社の方にあるわけ。しかも家族はそのコミュニティに属していないんだよね。それだから、女性が担っちゃうんですよね。地域とか家族の話になるとね。だって男たちはみんな違うコミュニティに属しているんだから。別居-通い婚とほとんど同じですよ。

古山:ギリシャのスパルタがそんなだったんですよ。もっと極端にしたものですけどね。あそこは、男を全部戦士にしてしまった。小さいときから共同体生活をさせて、戦士としての教育をする。「話すときは、要点だけ話せ!」というような教育です。めちゃくちゃ強い戦士たちができるんで、戦さをするとめっぽう強い。ところが、行政能力もない、人を説得したりビジョンを提示したりもできない、経済となったら子ども同然。占領行政がまるでやれなくて、戦闘には勝つけど、戦争には勝てないんです。

このスパルタが、やっぱり通い婚です。男たちだけのコミュニティがあって、そこから通っていくだけ。すると、女たちが強いんですよ。なにせ、経済と社会と文化をになっているのは、女たちにならざるを得ないでしょう。男たちは、腕力だけある、赤ん坊になってしまった。

参加者:日本の場合、経済の部分に巻き込まれざるをえない、いくらこう、地域性をコミュニティを創りたくても、おとうさんの転勤が決まってしまうと、いくら築きあげてきても、一瞬にしてゼロからやり直しになってしまう。そこが大きな違いかな。

日本はポシャらない

古山:その経済がね。もう、その行き詰まりが見えちゃっているところなんですよね。国債の残高と年金と、今の不良債権と、もうサラ金状態ですよ。能力あるはずと思ってた人たちが、サラ金地獄から抜け出せなくて、手当たりしだいにそこらの金に手をつけることしかしていない。遠からず、崩壊しちゃう……。でも、ぼくは、日本ってのは、それでそのまま、ポシャるような社会じゃないと思っている。

小貫:ポシャんない。ポシャんない。だってさ、ブラジルみたいな国だって、ちゃんとやってるんだから。日本と比べたら、破綻っていう意味では、めちゃくちゃ破綻してるのにさ。人間なんてそれでもちゃんと生きていけるんだと思いますよ。

参加者:そこには楽観的か、そうじゃないかっていう大きな違いがあるような……。

小貫:経済の全体が落ち込むっていうレベルの話じゃ、死ぬほどじゃない。その中で、ある一部の人が、持っているものを全部失わないという守りにはいると、その他の人たちは死ぬのに近い、つまりホームレスの人たちが増えているという状況に今なっているけど、ああいうふうになっちゃう。

オランダのおもしろいところですが、オランダではみんなでちょっとずつ貧しくなろうっていうことを考えて、ワークシェアリングっていうやつをしてね、それで国全体が逆に少しずつよくなってきた。みんなでちょっとずつ労働時間と給料を減らすかわりに、失業者を出さないようにということをやって、これが大成功した国ですからね。

古山:それね、自分のことしか、っていうのをね、日本の中等教育が作っている。日本的じゃない。日本の論理じゃないんだよ。自分が点採らなきゃ、破滅だというところに、生徒たちを全部囲いこんじゃってるから。あの論理がそのまま資本主義の論理になって、自分がこうしなきゃ生きていけないんだってなっている。実は、受験勉強、入試地獄をどう解消しようか、っていうこと、ものすごく下手くそだったんですよ。試験方法をいくら変えたって入試地獄はなくならないんです。今までペーパーテストでやっていたけど、それじゃまずいから、人物評価にしましょう。といったって、どうやったら評価されるか、しのぎ削るのに変わりない。哲学を変えるか、希望者対入学者の比率を同じにするかしか、これしか策がないはずなんですよ。ところが、教育の舵取りを、大学の学者たちにばかり諮問しているのがいけない。彼らは、実行の段階になると、自分の大学のランク維持しかできない立場なんですよ。あの制度、全部いじっちゃって、例えばフランスのバカロレアみたいにしちゃうとか、入れるだけ入れちゃって、それだと環境悪いから、逃げるやつは逃げるだろう、くらいでやる。これで東大をつぶせばよかったんだよ。

小貫:国立大学はやっぱり全部、コミュニティカレッジとか市民大学みたいにするべきです。国立、公立なんだから、試験で通った一部の人しか入れないなんてのは、全くおかしい。公共性ってさ、文部科学省はいつもいうけど、こんなに公共性のないことはないと思う。公共のものなんだから、誰だって入れる場所にするべきなんだな。東大なんてセントラルパークみたいに広いんだしさ。試験とかで入るのは、私立の大学だけでいいんじゃないかな。どうだろ。

古山:大学のあり方自体も、きちんと考えなくてはいけないけど、まだ、やってないんです。ともかく、やっとチャンスがめぐってきた、というのは、少子化。ぼく、実際に受験生を相手にしているんだけど、毎年緩んできている。おととしは、ここの大学は、この点数採らなきゃ入れなかったところが、次の年は、小論文ひとつでよくなっている。次の年は、なんとか来てくださいって、あの手この手で勧誘している。4分の1くらいの、数は正確じゃないけど、大学が、今そうなってるんじゃないかな。そうすると、受験勉強しなくたって大学行けるんですよね。今、低ランクの大学の頑張りどころだと思うの。私は本当に教育をしますと。教育っていうのは、本来ね、どこがスタート地点だろうが、その人が何であるかをちゃんとみていって、できるだけのことをしてあげる。これが教育ってもんでね。それをきちんとやった大学っていうのは、10年後すごい評価されてると思う。それをやってるから人が集まってきて、学力低くても、経営安泰ですよ。確かに、算数はできないかもしれないけれど、確かにあそこの人間たちは、なんかきらっとしているものを持っているなと、そういう大学になればいいんだ。すごいいいチャンスがきていると思うね。

人間のあり方を問うはじまり

小貫:時間がせまってきたので、最後に一言っていう感じで。なにか他にありますか。

参加者:地域通貨なんて話しまでしたかったな。地域性の話しがでたので。

小貫:ぼくもそう思います。教育だけの話じゃないんですよね。ぼくは今までいろんな仕事をしてきたけれど、今回の一連のできごと、こんな簡単な仕事ってなかったなって思うほどです。だって11月から始めて、12月18日に昨日のような状態に至っているなんてね。2ヶ月だよ。やけに簡単なプロジェクトだったなあ、なんて。昨日の会までの話だけですけどね。

それでつらつらと考えて、これはなぜかなあと考えてみると、「教育」というのはね、「教育をとる」ということはね、それだけが最終目標なんじゃないんだよね、きっと。「教育」をまず取って、その後に、もっとずっと大きな「人間というもののあり方」とかそういうことが、すごく大きなプロジェクトが始まる。その最初の一歩なんだよなって感じがします。

古山:小貫さん、次、医療だって言ったでしょ。ぼくは、すぐ、会社内の組織問題だって思ったしね。そうなんだよ。いくらでもあるんだよ。

小貫:だからそういう意味で、ぼくはね、すごい文化運動が、今始まろうとしてるんじゃないかと思うんですよ。

古山:タイミング良すぎるもんね。

小貫:すごいですよね。何もかも、驚くばかりのタイミングでめぐってきてね。すごいことなんだよね、きっとね。全て偶然が重なる時っていうのは。すごい偶然が重なっていますからね。これまでの一連のことは。

そのぐらいの偶然をここんところに集中して起こさないといけないくらいの「すごい大きなこと」が、今始まろうとしてるんじゃないかと思うんですね。巨大な文化運動。

古山:文化運動。テーマは何。

小貫:テーマねえ。テーマの話をする前に、これはぼくは世界的なことだと思うんですね。さっきから繰り返し言っているけど、民族の良さを生かしながら他のところを成熟させていかなければならない、ということじゃないでしょうか。それは、他の民族についても言えることであって、そういう世界的なレベルのできごとに日本が貢献できるようになるためには、まず日本が、今のようにドツボっていては困った話しなんですよ。世界にとって。

ブラジルとオランダだけでアライアンスを創っても、足りないわけですよ。やっぱり日本にそこに入ってもらいたいと、世界が望んでいるんじゃないかな。でもこのままじゃ、入れないよね。あまりにもドツボっていて。日本人が、世界の中で本当に果たすべき役割を果たせるようになるために、世界そのものが今あせっているんじゃないかな。これは20年でやらないと世界が滅びると、ぼくは思っているんですね。今のまんまで、アメリカがああいうふうになってきている中で、あそこまでぐわぁーっときていると、あのアメリカ型世界観のシステムっていうのは、20年で世界が崩壊する方向に向かってまっしぐらに走っているわけですよね。それを20年間の中で阻止して救うためには、早く日本に参加してもらいたいと世界が叫んでいるんじゃないかな。

日本の中に「個人」が生まれる

古山:ぼくはそこらへんのところに具体的なイメージは持っていないけれど、よく言うのは、したいことしましょう。ばらばらに言いたいこと言いましょう。政治っていうのは個人の一番美しいものが制度を求めてくる、そういう部分なんですってね。実はみんな怖くてうそついて生きているわけですよ。実はみんないいもん持っている、きれいなものをもっている。それが10%でいいから流れ出してくれたら、そこはね、作為の部分じゃなくてね、なんか、それが動きだすと不思議なことが起こりだすっていうことなんですよ。10%だったら、それぞれの人に求められるんじゃないか。自分が一番美しいと思う部分で社会生活にもう10%関わってくれると、そうすると自然にうまくいくんじゃないかな思っているんですけどね。

小貫:そう。私は昨日感じたのは、これから、本当に、「私」っていうものがね、日本人の中に、ひとりひとりの中に生まれていく。今まで日本っていうのは、典型的に「私」というものがもてない民族だったわけですよね。それが、昨日みたいなある日を境にして、「私」が生まれ始めるんじゃないでしょうか。今から400年経ったときにはね、「私」というものをしっかり持った民族として知られるようになる。「日本人みたいに『私』のしっかりした民族でも、実は400年前には全く『私』というものがない民族だったらしいですよ」って言われるようなね、そういうことが始まろうとしているんじゃないでしょうか。

文化なんてね、ある時、急に変わるんじゃないかと思うんですよね。日本人に「私」という個が生まれる。それは巨大な文化運動です。

古山:それとね、個人だけが光を担えるんです、ということなんです。いままで、集団に光を見出そうというタイプのは、みんな行き詰まっちゃってるでしょう。独裁になるか、ドグマ信仰になる。個人だけが、インスピレーション持てるしね、個人だけが良心を持てる。人間の一番クリエイティブな部分を担えるのは個人だけなんですよね。だからいかに日本人に個人であることを許してあげるか、なおかつ孤独にならないように、いろいろ工夫していく、そしたら後は自然にうまくいくんじゃないかな。

小貫:それはシュタイナーの考え方でもあるけど、「私」というものだけが唯一、霊的な世界、全宇宙につながっているのであって、「私」を通じてこの世と神さまの国との間に穴があけば、いくらでも泉のように、無限にクリエイティブなものが湧いてくるっていうイメージですよね。個というものだけが、唯一、その無限の泉につながっているんですよね。

今の日本の教育は、それを許さない。泉に蓋をしておいて、既にある水を循環させているだけじゃないですか。何も新しいものは出てこないわけですよ。だって日本の教育は、既に人類がどこかで発見してわかっていることを覚えることが教育みたいになっているから。まだないものを生み出すことは、教育の目的にはそぐわないみたいになっちゃっているわけじゃないですか。教育っていうのは、なんか日本の場合、定義上、既にあるものを学ぶことである、っていうようになっちゃってるんですよね。自分で発想するんだったら、それは教育じゃないじゃないか、っていうようなね。

今までは存在していなかったものを生み出すことを創造といいます。そういう力を生むためには、「私」っていうものを育てることが、人間をつくることが教育でなければいけない。人格の完成という表現がされるのか、生きる力という表現がされるのか。だって、人間はさまざまなところでつまづき、さまざまなところで道を踏み外し、さまざまなところで弱くなるから、そういうところまで辿り着けるためには、自らの中に泉が生まれていなければいけない。それが、教育の目的です。

古山:これでたどりつくべきところにたどりつきましたね。その泉なんです。

小貫:今日は本当にどうもありがとうございました。

(拍手)

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